- メンタルをゲーム感覚で強くしよう!!
人との関係を、ゲームに例えるなんて。と、思われる方もいるかもしれないけれど、ゲームに考えた方が、メンタルは絶対に強くなる。
自分に焦点当てゲーム
1 強く言われた時の自分
2 カチンときた時の自分
3 意見を求められた時の自分
4 邪険にされた時の自分
相手ではない、自分に焦点を合わせ、自分はどうだったか、自分の気持ちがどう揺れたか。自分の中の答えは何か。
を、考えるゲームにしちゃうと、見えてくることや、改善点もあって、きっと人間関係はうまくいく。
うまくいくんだって、思い込みも重要。
ただ、ゲームといっても、そこの部分には、人に対しての深い感謝の気持ちが大事。
人を好きで、人に対しての感謝がないと、ゲーム感覚でいても決して良い方向には進んでいかない。
人間関係がうまくいかない。なぜか目の敵に。
そのひとは、真面目で誠実。先に立って、やらなければいけない仕事もしっかりやる。優しい雰囲気のしっかり者。それなのに、なぜか人間関係がうまくいっていない。
人がついていかない。
ついていかないだけではなく
目の敵にされてしまっている。
すると、その人は
「まあ、耐えていくしかないよね。」
「これは、修行なんだ。」
と、困った顔をしていた。
修行 耐えることは良いこと?!
人は、耐えることも必要。何か好きなことをやるにしても、簡単にできるようにはならないし、続けるのだって簡単なことではない。
耐える。
この世は、矛盾していることがあったり、生きづらいなと感じることも多々あるけれど、人間関係で耐えるって、自分にとって良くない。
だって、この世は、ほとんどが人間関係。
それなのに、耐えます耐えますで、人生進んでいくのは、しんどすぎる。
なぜ耐えようと思うのか。
自分が我慢していれば、いいんだ。自分がガンバっていればいいんだよね。過ぎ去るのを、自分が耐えて待てばいいんだよね。
自分が辛いのを置いといて
置いとかれて
自分が自分が自分が自分が自分が自分が
自分のことしか見えてない。
辛い自分は置いとかれて、周りを見ようとしない。
でも、それって、自分は悪くない、あちらが悪い。
それで終了。
何も変わらない。
自分は善人で、あちらは悪人。
善人か悪人かで例えるのは、大げさかもしれないが、突き詰めるとそうなる。
自分を善人と思い込むが故に、人間関係がうまくいかないっていうのは、もったいない。
自分を正義感が強い。善人なのだ。そう、思えば思うほど、自分しか見えず、周りを見ようとしないから
私は善人だ!!
間違ってないんだ!!!!で、
全面に主張し、ぶつかる。
善人と悪人
中学校の時、仲間内で、許せない。信じられない。と、思うようなことをした友達がいて、「あの子は、悪い子」という目で見られ、みんなからの批判も、ヒートアップしたことがあった。
私は、正義感が強い方で、許せない。ひどいよ。
と、いう気持ちを、その子に強くぶつけた。
すると、強がっていたその子が、突然
わっと泣き出してしまったのだ。
私は、ハッとして驚いた。
その時の記憶が、
この
ハッとした記憶だけが強く残っている。(最終的には仲直り)
傷つけられた側から、傷つける側にまわった瞬間。
正論は、時として暴走をする。
正義感は、強くてかっこいい。頼りになるし、悪という感情がない。
とてもよいこと。間違っていない正しいこと。
でも
悪の部分しか見えなくなり、自分の正当性に強固に酔いしれてしまうと、相手を傷つけてしまっていても見えなくなってしまう。
正論が暴走する。
さっきまで、悪いことをし、私は良いことをしている。と思っていたのが、傷つけた悪人側になる。
自分が正しいと思うことは、正しい。
それは、自分 というものを、しっかりと持っているということなのだから。
だけど、私は、悪人も善人も、どちらも自分の中に持ちうると思う。
知らぬ間に、自分の感覚では気づかないところで、人を傷つけているのかもしれないし、逆に人を励ましているのかもしれない。
悪人にも善人にもなる。
悪人、善人の定義、捉え方も人それぞれで。
だからこそ、いっぱいいっぱいの気持ち。完璧だと、疲れちゃうし、いい関係をつくれない。
人に頼ったり、教えてもらったり、楽しい気持ちにさせてもらったり。そうやっておかげさまの関係でいかないと、いくら正しくても、うまくいかない。
だからこそ、この今。に、意識を向けて、人との関わりを大切にして、善人に偏りすぎていないかな。という視点は、常に持っていたいと思う。
みんな悪人にもなる。善人にもなる。自分もそう。って、思えると、自分にも、まわりの人たちにも優しくなれる。
NHK100分de名著
『歎異抄』 第2回悪人こそが救われる
「歎異抄」の中で最も有名な一節、「善人なほもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや」。普通に考えれば「悪人でさえ往生するのだから、まして善人はいうまでもない」というのが筋のはずだが、親鸞は「善人よりも悪人こそが救われる」と論理を逆転させる。有名な「悪人正機説」だ。ここでいう「善人」が「自力で修めた善によって往生しようとする人」を意味することに注目する必要がある。そこには「仏の目からみれば全てが悪人であるのに、自分自身は善人であると思っている傲慢さはどうなのか」という親鸞の問いがあると釈徹宗さんはいう。また、一般的な社会通念では決して救われないような人々に対して全く異なるものさしを提示することで、弱者や愚者といった社会の底辺に置かれている人々が救われる原理を追求したのが親鸞の「他力本願の思想」なのである。第二回は、親鸞の思想の核心である「悪人正機」と「他力」という言葉に込められた深い意味を読み解き、自らの悪を深く自覚した人、社会の底辺で生きる弱者や愚者こそが救われるという、親鸞の教えの核心に迫っていく。
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人はどれ程人生を悟ったように思えても
想い煩う事があります。
だから心の拠り所としての宗教が在るのではないかと思います。
心の拠り所、、、若いころに悩みを深くしてしまうと
「太宰治」などのように自ら「命」を絶ってしまう事も在るようです。
しかし、心の拠り所も凝り過ぎ、拘り過ぎると
「排除します」になりがちです。
自分だけが正しい、のだと…。
「人は他人、されど仲良き・・・」に生きましょう。